仏教を中心とする人文系学術書の出版社です。

編集室から

花を摘む女性たち
        花を摘む女性たち(2 - 3世紀、ガンダーラ)

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図像から読み解く密教の精髄 ─『理趣経曼荼羅の研究』によせて─                        (2025年9月14日)

残暑の中にもツクツクボウシの声に、秋の気配を感じる季節となりました。

理趣経曼荼羅の研究

今回は先に刊行した『理趣経曼荼羅の研究』についてご紹介しましょう(現在品切れ、重版未定)。
『理趣経』は、衆生にとって避けることができない「欲」を、般若の智慧(空観)によって、一切衆生を済度しようとする「菩提心」に転化する教えを説く経典で、日本の密教では読誦経典として常用されるものです。
『般若理趣経』ともいうように、もとは『般若経』から展開したものですが、密教の『初会金剛頂経』の要素も併せ持ち、各段では、密教の菩薩を代表する金剛薩埵を始めとする諸尊が、様々な角度から教えを説いていきます。本書は、そこに説かれる各種の曼荼羅(日本で常用される小本では注釈書の『理趣釈』、大本の『理趣広経』では経典自体に説かれるもの)を、最新の研究成果を踏まえつつ、多くの図版を交えて解明したものです。
中でも50ページに及ぶカラー口絵により、チベット・ネパール・中国・日本の関連作例を示したことは大きな特色で、これによって、アジア各地における理趣経曼荼羅の展開を具体的に知ることができます。
また、本文では、それぞれの曼荼羅における諸尊の配置を具体的に図示しているのも有益です。各段の経文を、対応する『初会金剛頂経』の箇所と共に示した上で解説しているのは、「密教経典としての『理趣経』」を理解する上での、巧みな工夫といえるでしょう。解説では「読みやすさ」を意識して、敢えて細かな注やテキストの引用は省いていますが、現時点における『理趣経』研究の概要はほぼ網羅されていますので、巻末の「主要参考文献」と併せて見れば、本経研究の「最前線」を展望することもできるはずです。

『理趣経』は、『大日経』『初会金剛頂経』と共に、日本では最も有名な密教経典ですので、既に多くの研究が蓄積されています。そうした中での今回の一冊ですが、「口絵や挿図における視覚面での充実」「本文における簡にして要を得た、しかも総合的な記述」は、近代における『理趣経』研究の「基礎」となった栂尾祥雲先生の名著『理趣経の研究』を思わせるところもあるようです。
著者の川﨑一洋先生とは、かつて、私も密教図像学会でお付き合いさせて頂きましたが、理趣経曼荼羅の作例を求めて幾度もチベットやネパールへ足を運ばれる熱意には、大きな感銘を受けてきました。本書の口絵冒頭のムスタンの見事な壁画の写真も、今回、本書のために、わざわざ現地を訪ねて撮り直されたものです。
栂尾先生の名著が出版されてから既に1世紀近くになります。そうした中で、同じく高野山大学出身の川﨑先生によって、ここに、その伝統を受け継ぐ力作が刊行されました。川﨑先生の努力に、深く随喜したいと思います。

インド大乗の瞑想法 ─『修習次第』によせて─                                 (2025年7月13日)

早くも大変な暑さですが、いかがお過ごしでしょうか。

修習次第

さて、今回は先に刊行した『修習次第』についてご紹介しましょう。
本書はインド後期大乗の論師として名高いシャーンタラクシタの弟子のカマラシーラ(8c.)による名著として知られるもので、初・中・後の三篇からなり、内容的には、瑜伽行中観派の思想的背景のもとに、インド大乗の瞑想法の基本である止観(シャマタ:精神集中 / ヴィパシャナー:真実の洞察)の実際について、簡潔・平易に紹介したものです。いわば「インド大乗の瞑想入門」といえる好著です。
ここでいう瑜伽行中観派とは、インド大乗の二大潮流である中観派と瑜伽行(唯識)派を統合した後期大乗の学派ですが、本書の特色として、その研究では定評のあるベテランを筆頭とする訳者によって、最新の研究成果を反映した訳注がなされていることが挙げられます。それは冒頭の「解題」や末尾の「付録」、本文和訳への詳しい注に顕著ですが、それを踏まえた和訳も実に平易で、読みやすいものです。
特に、「付録」IV. シノプシスは三篇の対応箇所を対照して有益で、これをもとに「解題」では、後・中・初の順で記述が充実していくことを指摘し、そこから著作の順序も、従来いわれていたような初・中・後ではなく、その逆である可能性を論じています。
また、「解題」末尾で、『修習次第』の内容について、『入楞伽経』の誓願思想や、『大日経』の三句の法門をめぐって論じられていることは、「インド後期大乗の宗教性への視点」として、意義深い指摘です。
さらには、注に示されるように、ツォンカパの『ラムリムチェンモ(道次第大論)』など、チベット仏教への影響も見逃せません。

弊社では、設立当初にはチャンドラキールティ『入中論』(現在品切れ)、最近ではシャーンティデーヴァ『学処集成』などの「インド大乗の名著の全訳」を刊行してきましたが、今回の『修習次第』も、その一環として、広くお勧めできる一冊です。

「一期一会」の出会い ─『滑渓清韻録』によせて─                                (2025年5月19日)

青葉の5月も雨がちな中に半ばが過ぎました。私の子供の頃(もう半世紀ほども前になりますが)を振り返えると、「はたして、5月はこんなだったろうか?」とも思いますが、季節の移り変わりもずいぶんと変わったようです。
もしかしたら、今の若い人には、もう昔の日本の「季節感」はピンと来ないのかもしれません。

滑渓清韻録

さて、今回は先に刊行した『滑渓清韻録』についてご紹介しましょう。これは実は拙著なのですが、私が30年余りかけて集めた古美術を中心とする作品500点以上をオールカラーで掲載した図録です。
中でも、第1章「仏教美術とその周辺」にはその半分ほどを収録しましたが、私が個人的に続けてきたアジア密教美術の研究資料として蒐集したもので、前著『密教美術形成史の研究』(2019弊社刊、現在品切れ)の資料篇となるものです。北西インドを中心に、アジア各地について、それぞれかなり体系的に作品を収録していますので、これだけでも「アジア全域における仏教美術の展開と、その中における密教美術の様相」を、ある程度は展望できる内容かと思います。
また、他の章では世界各地の各分野の作品を収録していますが、これによって、「人間の心の広がり」(空海なら「十住心」というところです)を、美術作品を通して展望することもできるでしょう。
具体的には、【目次 / 図版見本】をご覧頂ければと存じますが、新出の資料的価値のある作品も数多く含まれていますので、この方面に関心のある方でしたら、それなりに得るところもある内容かもしれません。

なお、タイトルの「滑渓清韻録(かっけいせいいんろく)は、近くを流れる鎌倉・滑川(なめりがわ)のせせらぎの響きに、本書に収録した作品の美しさを重ね合わせたものです。その意味は、併記した英題「The Pure Sound of Namerigawa River」の方がかえってわかりやすいかもしれませんが、本書では、敢えて風雅に、古風な漢語的表現にしてみました。昔の中国の文人たちが、それぞれに出会った書画についての記録を残していますが、そうした書物のタイトルになぞらえた面もあります。
今のように、写真やそれを掲載した図録、ましてやインターネットなどなかった当時、そうした書画との出会いは、文字通り「一期一会」でした。そうした出会いと別れのはかなさは、今も古美術蒐集では、本質的には変わりません。人は必ず死ぬものです。出会った作品とは、いつかは別れなければなりません。
そうした中で、私が研究の過程で出会った作品の面影を僅かに留め、広く参考に供しようとするのが、本書の意図するところです

仏教文献の研究を主とする弊社の通常の書籍とはやや異なったものですが、ただ、本書には、そうした文献が生まれた時代の作品が、かなりの範囲で収録されています。
そうした観点から、本書をご覧頂ければ幸いです。

文献学から思想的研究へ                      ─『瑜伽行派における種姓説の展開』によせて─ (2025年4月16日)

桜の時期も雨がちの中に早くも過ぎて、青空の下に若葉が輝くようになりました。

ニュースではアメリカの関税引き上げ騒ぎ一色ですが、アメリカでも、かえって国内経済の混乱を招いているようです。江戸時代のような自給自足ならともかく、良くも悪くもグローバル化した現代の経済では、こうした「鎖国」は、なかなか難しいのかもしれません
いずれにせよ、諸行無常。どの貿易相手国も、どの政権も、いつまでも続くということはありません。この状況で、日本では政府に「何とかしてくれ!」という風潮も強いですが、古代以来の世界の歴史を展望しても、交易で栄えた国々は数多くあったものの、状況の変化に応じて新たな道を切り開くことができた国だけが残り、そうでない国は衰退しています。
ここは、わが国が標榜する「自由経済」の原点に戻って、政府頼みではなく、各人・各企業が、それぞれの立場で、新たな経済活動の道を模索していくことが大切なのではないかと思います。

瑜伽行派における種姓説の展開

さて、今回は先月末の新刊『瑜伽行派における種姓説の展開』をご紹介しましょう。

瑜伽行派(唯識派)は中観派と並ぶインド大乗仏教の二大潮流ですが、そこでは唯識説と共に、後世には「五姓各別」と呼ばれるようになった「衆生が悟りを開く可能性(種姓)」の有無・区別に関する議論もよく知られています。これは「成仏できない衆生」の存在を認めるため、「一切衆生の成仏」を認める一乗思想や如来蔵思想とは鋭く対立するもので、わが国では、平安初期の徳一(法相宗=五姓各別)と、最澄(天台宗=一乗)による「三一権実」の論争が有名です。
本書は、こうした瑜伽行派の種姓説について、初期瑜伽行派(『瑜伽師地論』を始めとするマイトレーヤに帰せられる諸文献)から、中期瑜伽行派(アサンガとヴァスバンドゥの諸著作)にかけての展開を辿ったもので、事実上「種姓説から見た瑜伽行派文献史」といえる内容です。特に「瑜伽行派の出発点」というべき『瑜伽師地論』に関する記述が充実しているのが特色で、同論の各成立段階における種姓説を詳述すると共に、巻末付録には、同論で大乗菩薩道について論じる『菩薩地』「種姓品」の和訳と校訂テキストを収録しています。「種姓品」には「菩薩の特徴」も端的に説かれていますので、短いながらも大乗菩薩道を知る上で、とても有益です

なお、本書の記述を見て印象的だったのは、まず、本来「血筋」を意味する「種姓(ゴートラ)」は、初期仏教ではむしろ「仏教では取らない立場」として否定的に扱われていたのが、部派仏教になると「修行の一段階」や「修行者の資質」を意味するものとして採用され、やがて、瑜伽行派になると「修行者の資質」を意味する術語として定着していったということです(序論)。
特に興味深いのは、部派仏教(説一切有部)の『大毘婆沙論』では、修行者の資質の転換(転根)が認められていたものの、瑜伽行派ではそれが認められなくなり(p.12)、「種姓の固定化」が進んでいることです。ここから、初期仏教から部派仏教(特に説一切有部)への推移の内に「実在論的思考」が進み、瑜伽行派ではそれが一層強まった様子を読み取ることもできるでしょう。「仏教のインド思想化」といえる面もあるようです。
こうした展開は、中観派の「無自性」とは鋭く対立するものですし、「仏教の理解」としても、どこまで妥当なものなのかが問われるべきかもしれません。なぜならば、悟りという「果」について、あまりに固定的な「因」を想定してしまうと、極端にいえば、インドにおける仏教外の思想であるサーンキャ派の「因中有果説」に近いものになってしまう可能性もあるからです(これは如来蔵思想についてもいえることです)。

かつて「基体説(ダートゥ・ヴァーダ)」として、一見、鋭く対立するかに見える瑜伽行派と如来蔵思想に共通する思想的性格について、批判的な考察がなされて、大きな議論が起こりました。
今回、本書によって「初期仏教から瑜伽行派の形成期にかけての種姓説の展開」が、丁寧に、文献学的に整理されました。
今後は、以上のような「仏教の本質(縁起・無我)から見た種姓説への評価(古典的表現でいえば「権実」「未了義・了義」)」や、さらには「種姓説が要請された思想史的・社会史的背景」を含めた、深い視点からの思想的研究を期待したいと思います。

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